2011年8月21日日曜日

安藤忠雄

 安藤忠雄の建築物は素晴らしい。

 私が最初に彼の作品に出会ったのは大学時代、通学途中大阪梅田の紀伊国屋書店で、米国建築雑誌等で彼の作品が紹介された本を見たことからである。貧乏学生だった私は高価な本を買えずに、立ち読みで作品の写真、思想に触れるしか無かった。

 今から約30年前当時は、彼はまだ国内では無名であり、というのは彼は所謂国立大学の派閥族意外であるため、少なくとも日本の建築業界では見向きもされていなかった。しかし、海外では、彼の作品は頭角を現しブレークしつつあったのである。
 彼にはいくつかの有名なエピソードがある。例えば集中力についてのエピソードである。彼は何故か度々交通事故に会いそうになるという。それは、作品に集中するが余り、作品の事が頭を離れず、道を渡るときに周りに気付かないからだと言う。これは一例なのだが、私は(技術者であるが)作品を創作するには集中力はやはり必要だと思う。
 -さて、彼の原点となる作品は間違い無く、『住吉の長屋』だと思う。三軒長屋の真ん中の住居にコンクリート住居をぶち込んだその手法は相当過激である。住居の真ん中に中庭を配置し光と拡がりを演出した。一方で、部屋を渡るのに傘が必要になっている。しかし、自然と対立することの意義も説いている。
 安藤忠雄はこのように個人住宅、特に劣悪な環境下でこそ力を発揮しているのは間違いない。商業ビルにおいても同じような傾向がある。しかし、比較的恵まれた土地条件、環境下における、大規模な建築では、少々緻密さが失われがちであったと感ずる。

 しかし、その後の作品を見ていると、美術館や教会等で光、その影を使った巧みな手法で、新しい境地-印象的な作品(光の教会)-などを残すようになった。
 彼の作品は、私が考えるに、都会的と言うよりは、都市ゲリラ的だと思う。だから大阪から発生したとも言える。実は同じような作風では東孝光の作品がある。彼らは都市生活者に、快適性では無く、自然と対抗することを説いているのである。

 豊かな生活に慣れてしまった我々に警笛を鳴らしている。

2011年7月3日日曜日

アナログという贅沢



2011年5月29日日曜日

初めてのカメラ ニコンFM

 かつて銀塩マニュアル一眼レフにも小型化ブームがあった。

 火付け役はオリンパスOM-1である。
 OM-1は故・米谷氏が一眼レフの3悪にメスを入れた傑作である。

 一眼レフの3悪・・・・・「大きい、重い、ショックが大きい」

 その後、小型化を得意とするペンタックスがマニュアル露出機としてOM-1より縦・横サイズとも若干縮めたMXを発売。若干なりともOM-1より小型化したのはペンタックスの意地だった。両機ともボディは小型であってもダイアルや巻き戻しクランクはむしろ大型化し、小型であっても操作性を犠牲にしないというコンセプトではあったが、実際ホールドしてみるとさすがに小さすぎて頼りないところがあったのも事実である。



 そんな時代に、満を持してニコンからも小型機 FM が発売される。

 それまではニコマートFTシリーズで廉価な巨漢機を誇っていたのに一気に小型化された。ここで注目すべきはFMは世界最小を追わなかったことである。あくまでも理想的な大きさを追求し、ホールド性、操作性、機動性のバランスを取ったところが素晴らしかった。

 カメラの見た目以外にこのカメラが先見性という点で優れていたのは小型・縦走り金属幕シャッターを採用していたことである。初代FMはCOPAL製の最高速1/1000(X同調速1/125)のシャッターであったが、その後FM2で1/4000を実現する。あの銘機ニコンF2、F3でも布幕横走りシャッターであったので、そういう意味ではニコン社の中でもFMシリーズは高性能なカメラであったのだ。その後、FMシリーズはFE、FA等で自動化路線に走ったり、FM3Aではメカと電子のハイブリッド型シャッターへと進化してゆく。

 私が高校生の時、熟考に熟考を重ねた結果、人生で初めて買ったカメラが ニコンFM だった。

 理想的なバランスを持ち、精密機器としての持つ喜びも感じられ「金属感」も申し分ない。 銘機だと思う。

2011年5月21日土曜日

至妙なる名機 ミノルタCLE

 30年前に発売されたミノルタCLEは、CLとは違い独自の「立ち位置」により高い評価を得ていた。独自というのは、レンジファインダーカメラとして初めてAE(自動露出)を実現したことから来ている。写真のようにシャッター幕にランダムパターンを印刷し、フィルムとほぼ等しい反射率を持たせ、その反射光を測光することでAEを達実現している。CLのように測光素子がメカニカルに回転する機構が無く、タイムラグの無い合理的なシステムである。このダイレクト測光がミノルタの特許であることはあまり知られていない。オリンパスのOM-2に最初に搭載されたので、みんなO社の特許だと思っていたのだ。
 一方CLEがCLに較べて巧妙だと思ったのは、当時同じ時期に商品化されていた普及機・ミノルタXG-Eから多くのパーツが流用されていたことだ。VE設計(Value Engineering)というヤツである。高級レンジファインダーカメラにもコストダウンを行うあたり、非常にミノルタらしいと思ってしまった。外装で唯一特筆できるのは、黒塗装ではなく黒クロームメッキであることである。私の記憶ではこの黒クロームメッキを採用しているのはライカ以外ではライツミノルタCL、CLE、ミノルタXD、XD-Sくらいである。ライツとの技術提携によって得た貴重な技術だ。メッキならではの非常に深い艶がでていて、これはいくら塗装を多層塗りしても敵わない。最近のデジタル一眼レフではどの機種もプロット塗装(ブツブツの付いた塗装)で深みを出そうとしているが、繊細感が無く私はあまり好きではない。メッキは環境問題もあるのでそのままでは復刻できないだろうが、代替となる加飾技術が望まれている。
 このカメラが発売されたとき私は高校卒業前だったが、その約4年後この会社にお世話になるとは全く想像すらしなかったのである。

2011年5月15日日曜日

懐かしい快感(カ・イ・カ・ン)

 今日は天気も良かったので、有楽町の東京国際フォーラムで開催されている大江戸骨董市にぶらっとと行ってきた。骨董市に行くのは初めてだったが、期待以上に面白かった。とても怪しい品物が所狭しと並んでいて、売る人も買う人も幸せそうに見えた。仏像、刀の鍔、着物、古いカタログ、玩具、カメラ、時計など高そうなものもあるけれども、、ほとんど怪しいものばかり。まあ二束三文なものでも、価値を見いだすのは本人次第ということか。『お宝なんでも鑑定団』ではないけど、、そういう所がまた面白いのだ。良い被写体が一杯あるとは知らず、カメラ持ってくるの忘れてしまったのでiphoneで撮影。



 こちらは古い映画のパンフレット。『セーラー服と機関銃』のパンフレットに体が反応してしまった。僕が大学1年のとき、1981年末に公開された映画。隣に見えるハリソンフォードも若いではないか!
 30年前にタイムスリップしてしまいました。


2011年5月8日日曜日

深淵なる名機 ライツミノルタCL(LEITZ minolta CL)

 私は70年代前半頃、小学生のときに父親が自営していた学習塾に通っていた。
 塾は自宅から遠く離れていたので父が車で通勤するときに一緒に連れて行ってもらって、また塾が全部終わったら一緒に車で帰ってくるという風だった。自分の授業が終わってから帰る時間までおおよそ2時間くらいの時間があっただろうか。その待ち時間を使って、1人駅前周辺をぶらつくのがいつもの決まりだった。駅前周辺には5、6軒カメラ屋があっていつも1軒1軒カメラ屋のショーケースを眺めては悦に浸っていた。既に小学生のときにカメラ好き(いわゆるカメラオタク)の兆候があったのである。当時特にお気に入りだったのはオリンパス35DCやキャノネットGⅢなど、大口径レンズを搭載したコンパクトカメラだった。コンパクトカメラと言っても当時のカメラは今のプラスティッキーさなど微塵も無くて金属の塊感が溢れていた。その他には16mmカメラになるが、ミノルタ16MG、16PSなども精密な感じで好きだった。そんな中、コンパクトカメラと同じような大きさながら一際値段の高い不思議なカメラがあり私の興味をかき立てた。ライツミノルタCLである。
 カタログを貰い、眺めていると何と、レンズが交換できるという、コンパクトカメラには無い特徴があった。一眼レフカメラではないのに、コンパクトカメラのように小さいのになぜかレンズが交換できるカメラというのが、非常に特異な存在で、知る人ぞ知るみたいな製品だと感じていた。このカメラは後々に渡って私の記憶に深く刻まれて、私の中での『カメラの原点』みたいな商品像として記憶に染みつくことになった。
 その後私が手がける、ミノルタ・コニカミノルタの一眼レフカメラにもこのライツミノルタCLの思想・姿・形の一端が多少デフォルメされながら引き継がれていく。

2011年5月7日土曜日

ソニー・御殿山界隈

港区御殿山界隈。ソニー旧御殿山エリアである。ソニー創業の地は中央区日本橋であるらしいのだが、そのすぐ9ヶ月後にはこの御殿山界隈に本社を移転しており実質的にはこのエリアが創業の地と言って良いだろう。昔ここには比較的小さな棟がいくつかあったが、その中でも大きな2(?)号棟には棟内に食堂や本屋などもあった。エレベータは深いストロークのある押しボタン式で、なんとなれば釦を戻してキャンセルすることもできた。建て増しを繰り返した跡が所々あり、棟内は迷路のように複雑で、私のような新参者には迷子になりそうであったが、何かそこに勤務する人は自由に仕事をしている感じが強く感じられた。まさに「自由闊達なる理想工場」という感じだった。今の過当競争時代にあっては、他の事業所でもさすがにそんな緩い感じはないのであるが、ここには「自由な研究」という言葉が唯一当てはまる雰囲気があったように思う。そういう雰囲気を醸し出せたのもこのエリアが高輪から続く高台にある、非常に閑静な場所だったからに違いない。人が環境を作るのかも知れないが、実際には環境によって人が作られるのが正しいのではないだろうか。


ぎすぎすした工場地帯にあれば、そこに働く人達はその環境によりストレスを生む職場環境を作ってしまう。そういう例は私の経験も含めて枚挙にいとまがないのである。
 この地は売却され、積水ハウスによって「御殿山プロジェクト」として再開発されている。設計は日建設計である。開発の基本コンセプトは「邸宅のようなオフィス」。住居とオフィスとショッピングゾーンから成っている。近くを通ると、壁の厚さから来る重厚すぎる感じが、僕ら庶民からは近寄りがたい雰囲気を醸し出している。高輪といっても、、これではちょっと敷居が高すぎるのでは無いかしらんと思ってしまうのである。